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タイ矢崎電線開所式(昭和37年)

EPISODE

グローバル展開エピソード

日本企業の海外進出がまだ珍しかった当時の、
グローバル展開にまつわるさまざまなエピソードをご紹介します。

HOME グローバル展開エピソード 綿の栽培まで実現させた 紡織事業の深謀遠慮

1964 THAILAND

綿の栽培まで実現させた
紡織事業の深謀遠慮

パートナーの窮状を救え!

1964(昭和39)年、東京オリンピックまで後2ヶ月という8月のある日、タイへの出向を命じられたメンバーの壮行会が東京田村町(現:港区西新橋)の本社中庭で開かれた。タイでの赴任先は華僑が経営する紡績会社・大成紡績。その前年、矢崎にとって初の海外進出となったタイ矢崎電線は正式に開所式を済ませており、試運転期間も入れれば、工場はすでに2年ほど順調に操業していた。そもそもタイ進出は創業社長の矢﨑貞美の悲願であり、いつかは中国でビジネスを展開するために、タイ経済を支配している華僑とビジネスの太いパイプを作っておきたい、という深謀遠慮があった。張氏こそはその大立者であり、タイ矢崎電線立ち上げの共同出資者である。

ところが張氏が運営する大成紡績は設備が老朽化し、業績が思わしくない。「パートナーの事業を救え」という貞美の号令で、急遽支援調査部隊を編成。紡績のベテランたちが第一陣として加わった。同時に貞美は第2陣の応援隊を選抜。若手5人を国内の織機メーカーに研修に出し、猛特訓ののち現地に赴任させている。

調査隊はそれまで不採算部門の立て直しをやっていた経験から、古い設備のままではダメだと社長に進言。日本輸出入銀行から融資を受けて最新設備を備えた紡績工場を、タイ矢崎電線(パパデン)の敷地内に建設することになった。タイ矢崎マハグナ紡織の誕生である。「若い連中を織機メーカーで特訓していたのはこの日のためだったのか!」 調査隊メンバーのひとりは貞美の読みのすごさに初めて気づいたという。

綿の栽培から綿布まで現地一貫生産

貞美はさらにすごい夢を抱いていた。このころから日本の伝統ある紡績会社が続々とタイに進出しはじめた。いきなり強力ライバルの登場である。タイ矢崎マハグナ紡織のように、商社を通じて外国から原料綿を買っているにわか仕込みの弱小会社に、到底勝ち目はない。それなら、原綿を自家栽培で現地調達してしまおう。タイの農家に綿の栽培法を指導すれば地域の発展にも寄与できる。となれば貞美に迷いはない。すぐさま農業大学で綿作を学んだ新卒3人を現地に投入した。3人はコンケンとカンチャナブリで試験栽培を開始。1967(昭和42)年には契約農家から買い取った綿花を加工する工場と倉庫をコンケンに建設し、のちにラオス国境に近いローイ県チェンカンに拠点を移設。原綿はバンコクの紡織工場へ、良質な食用油がとれる綿実は日本に輸出。原材料から綿布までの一貫国内生産体制ができ上がった。

この成功はタイ国の農業省や日本輸出入銀行などから高く評価され、コンケン工場には連日見学者が押し寄せた。

こうして一時は華々しい成功を収めた紡織事業だったが、化学繊維製品の普及とともに綿製品の需要に陰りが見られるようになった。と同時に、タイ国に日本の自動車メーカーが続々と進出し、タイ矢崎電線へのワイヤーハーネスの注文が急増してきた。そこで、紡織事業を従業員とともに華僑の会社に売却し、社名もタイ・アロー・プロダクツに変更。自動車部品事業を新たにスタートさせた。ここに、タイ矢崎マハグナ紡織の歴史は幕を閉じた。