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タイ矢崎電線開所式(昭和37年)

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グローバル展開エピソード

日本企業の海外進出がまだ珍しかった当時の、
グローバル展開にまつわるさまざまなエピソードをご紹介します。

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1962 THAILAND

東京五輪前々年、タイ進出が
矢崎の海外展開第一号だった

創業社長の悲願 タイに結実

東京オリンピックの前々年、1962(昭和37)年7月10日。バンコックの南17キロ、母なるメナム川のほとりパパデンに竣工した「タイ矢崎電線有限公司」(資本金1億8千万円)では、照りつける南国の太陽のもと、仏教の国らしく仏式による開所式が厳かに挙行された。

冒頭、壇上に立った創業社長の矢﨑貞美は、タイ国政府を始め投資委員会、関係官庁、銀行等の援助に感謝し、併せて次のように挨拶した。「タイ矢崎は営利を目的として投資したのではない。タイ国経済・工業に大いに貢献し、日タイ親善の架け橋になることを念願している」。

午前9時30分、タイ国工業大臣の手で工場のメインスイッチが押され、各ラインは一斉に操業を開始。大臣と固く握手を交わした貞美の大きな目に、きらりと光るものがあった。矢崎が抱き続けた海外進出の夢が、ついに実を結んだ瞬間だった。

将来の対中国ビジネスの布石

1962年といえば、日本企業が生産拠点を海外に設けるのはまだ珍しかった時代。矢崎が初の海外拠点としてタイを選んだのはなぜだったのか。創業社長の跡を継いだ矢﨑裕彦会長はこう語る。

「創業社長は戦前、中国に電線を売り込みに行った経験があります。その経験を通じ、中国という市場の将来性と、中国人のビジネス感覚に畏敬の念を抱くようになりました。その後、日中の国交が断絶するのですが、いずれ国交は回復すると確信していた創業社長は、まずタイに工場を建て、タイ経済を実質的に動かしている華僑とパイプを作ろうと考えたのです。実際、華僑のもとに矢崎の大卒の若手をホームステイさせ、勉強させてもらったりもしました。このように創業社長は常にはるか先を見据えて決断し、実行する人でした」

発足当時のタイ矢崎電線の工場では、白と淡い緑で色分けされた5つの棟で伸線撚線、PVC配合等、全機がフル稼働。16人の日本人と46人のタイ人が働いており、主要機械の操作にも現地女性があたっていた。おそらく懸命に研修に取り組んだのだろう。それを指導した先人たちの苦労が偲ばれる。また、ある中国人ビジネスパーソンはその近代的な諸設備に目を見張った。「この工場は近代設備を備えている。いかに矢崎がタイを重視しているかが、よく分った」

GlobalからGlocalへ

自動車用電線を主体に一部市販用電線の製造からスタートしたタイ矢崎電線は、その後1970(昭和45)年以降まで、需要に応じて何度も工場増設・設備補充を重ね、生産を拡充していった。だが、開発には苦労した。通信用のアルペス・ケーブル(交流用電磁遮蔽層付の通信ケーブル)のときは、不眠不休で作り上げたサンプル第1号が相手側担当部長の目の前であえなく分解。「これは面白い、サムライケーブルか?」とからかわれる始末だった。その後も不屈の精神で改良を重ね、二次通信ケーブルに続いてタイ電電に念願の一次ケーブル納入を果たす。矢崎が長年培ってきたプラスチック分野の経験を生かした、発泡ポリエチレン絶縁体技術の勝利だった。

矢崎が初めてタイに進出して半世紀余。60人余からスタートしたタイ矢崎は、いまや従業員総数1万5千人を擁するタイ矢崎グループとなり、矢崎の連結売上を支える一角となるまでに成長した。ASEANという巨大経済圏、そのなかで存在感を増すタイ王国で、タイ矢崎グループに寄せられる期待はますます大きい。2012年に刊行された「タイ矢崎グループ50周年記念誌」のなかで、矢﨑裕彦会長はこう語っている。

「Globalizationを経てGlocalizationへ。タイ王国に根を下ろし、成樹から巨樹への成長を目指したい」。