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タイ矢崎電線開所式(昭和37年)

EPISODE

グローバル展開エピソード

日本企業の海外進出がまだ珍しかった当時の、
グローバル展開にまつわるさまざまなエピソードをご紹介します。

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1983 MEXICO

地域も人も栄え潤う海外進出
メキシコで実証した矢崎流

北米大陸での生産が本格化

1980年代に入ると、米国カーメーカーからの注文が一気に増えていった。そこで矢崎は北米大陸に工場を建て、ワイヤーハーネスの現地生産に乗り出す。1983(昭和58)年、アメリカとの国境に近いメキシコのシウダファーレスを皮切りに、矢崎はメキシコ全土に10年間で19の工場を造り、6,000人が働く会社へと急成長を遂げた。矢崎が他の日系企業と異なる点は、国境から200キロ、300キロも入った砂漠の僻地に工場を建て、現地の住民を雇ってものづくりをしていること。矢崎よりほかに企業らしいものはなく、地域経済の浮沈と工場経営が密接に関わっているケースが多い。「メキシコとの国境を越えてから、行けども行けども砂漠ばかり。何時間走っても、景色がちっとも変わらなくて、どこに連れて行かれるのかと心細くなりました」。矢崎の工場を視察に訪れたカーメーカーの担当者は、そういって苦笑いしたという。

国境からもっと奥地へ

シウダファーレスでの工場経営は、最初から異文化ショックの連続だった。作業中、ヒマワリの種を噛んでは足もとに平気で殻を吐き出す。ゴミが落ちていても拾う者はいない。遅刻、無断欠勤は当たり前。そもそも就業規則を守るという概念がない。離職率が異常に高く、月平均7%。いくら人を採用しても、1年間でほぼ全員が入れ替わる。会社を預かっていた当時の社長は毎日が採用試験と新人教育に明け暮れる始末だった。メキシコで矢崎流の工場経営を続けるのは無理なのか、と一時は真剣に撤退を考えたこともあったという。

そんな苦闘をよそに、北米に進出する日本のカーメーカーは増え続け、矢崎のメキシコ拠点に大量の注文が舞い込むようになる。シウダファーレスだけではとても間に合わず、第2、第3の工場新設を迫られたのだ。 日本から飛んできて、現地の事情を聞き取った矢﨑裕彦社長(当時)は、明快にこう指示した。

「もっと奥地へ、矢崎らしく奥へ入れ」

この鶴の一声で、まずシウダファーレスから約200キロも奥地のアセンシオンに進出。従業員55名でスタートした新工場は、数年で1,000人近い規模まで急拡大した。

公民館や映画館が工場になった

当時、矢崎誘致の先頭に立って尽力されたアセンシオン元市長は「矢崎が来てくれて雇用が生まれ、人々の収入が安定し、家を持つ人が増えました。市の財政が潤って教育に回せるようになり、小学校しかなかった市に中学、高校ができて、いまは専門学校を作る計画が進んでいます」と劇的な街の変化を語る。

アセンシオンに続いて、矢崎は国境からさらに奥のチワワ州各地に生産拠点を広げて行く。シウダファーレスから200キロ以上南に下ったガレアナという寒村もその一つ。我が村に進出してほしいと何度も通ってきた老人は、最後には「公民館を工場に提供するから」と、嘆願書まで携えてきた。熱意に負けた担当者がガレアナを訪れたところ、村長や村の有力者に加えて、村中の老若男女が待ち構えていた。口々に矢崎の進出を願い、その思いを訴える。(…これはとても断れない)村人総出の嘆願は実を結び、ガレアナでは公民館が工場に生まれ変わり、映画館を工場に転用する町も現れた。

「世界とともにある企業」「社会から必要とされる企業」が矢崎の社是。賃金が安いから工場を海外に移転するというだけでは、長続きするはずもない。その国、地域で何ができるか、誠心誠意考え実行する。その積み重ねが信用となり、困ったときには助けてもらえる真の信頼関係の礎となる。それが矢崎流の海外進出なのだ。