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タイ矢崎電線開所式(昭和37年)

EPISODE

グローバル展開エピソード

日本企業の海外進出がまだ珍しかった当時の、
グローバル展開にまつわるさまざまなエピソードをご紹介します。

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1986 PORTUGAL

矢崎のアローマーク
ポルトガル・ガイアに立つ

欧州初の生産拠点はポルトガルへ

1980年代に入り、日本の自動車業界にも一気にグローバル化の波が押し寄せる。1962(昭和37)年のタイ矢崎電線設立を皮切りに、1966年、米国シカゴに「アメリカ矢崎コーポレーション」、翌1967年にはヨーロッパ発の営業拠点としてスイスに「矢崎エリコン・コーポレーション」と、いち早く海外進出を成し遂げていた矢崎にとって、次の目標はヨーロッパに初の工場を建設することだった。

1985(昭和60)年、欧州準備室が設置され、3名の従業員にロンドン駐在員の応援も得て欧州全域で好適地の調査を開始。その結果、あらゆる条件を勘案してポルトガルがベストとの結論に達し、矢崎のアローマークが欧州の生産拠点として初めて、ポルトガルの地に突き立った。

ガイアの地に阿波踊りが舞った日

1986(昭和61)年7月30日、ポルトガルのサルバドール・カエターノ社との共同出資(矢崎60%:カエターノ40%)による合弁会社「矢崎サルターノ・ポルトガル自動車電機部品有限会社(以下YSP)」設立の運びとなった。社長には当時の準備室長が就任。

工場建設地を探す間、車検場を借り受け、黒ずんだ床にペンキを塗って現地採用従業員50名の研修場とし、同時に日本から新工場向けの設備や材料も運び込まれた。

やがてガイアという町に49,000m2の工場が完成。トレーニング期間も終了し、1989(平成元)年10月9日、ポルトガルのカヴァコ・シルヴァ首相(現・大統領)を始め政財界の要人を招いて矢崎サルターノ・ポルトガルのガイア工場落成式が盛大に挙行された。アトラクションとして矢﨑裕彦社長(現会長)が東京から呼び寄せた高円寺阿波踊り連の20余名がエネルギッシュな踊りを披露し、会場は大盛り上がりをみせた。

操業から3年の間は生産が計画どおりにいかず、日本から赴任した日本人従業員たちも、連日泊まり込みの日々。出向者の奥さんたちから「子どもが父親の顔を見たことがない。せめて日曜日だけは家族で過ごす時間がほしい」と言われ、これが一番こたえた。と、当時のYSP会長は後に述懐している。

4年目に入ると従業員の作業習熟度も急激に上がり始め、生産が軌道に乗るにしたがって収支も急速に改善されていった。