YAZAKI 過去がある。今がある。未来がある。 YAZAKI 過去がある。今がある。未来がある。

タイ矢崎電線開所式(昭和37年)

EPISODE

グローバル展開エピソード

日本企業の海外進出がまだ珍しかった当時の、
グローバル展開にまつわるさまざまなエピソードをご紹介します。

HOME グローバル展開エピソード 日本製の評価が低かった時代 アメリカ矢崎の挑戦始まる

1966 U.S.A.

日本製の評価が低かった時代
アメリカ矢崎の挑戦始まる

他企業に先駆けた米国進出

1966(昭和41)年12月8日、米国シカゴに「アメリカ矢崎コーポレーション(以下、AYC)」が誕生した。資本金は5万ドル(1,800万円)、全額矢崎総業の出資である。事業内容は①電線、電纜(でんらん) ②計器、ゲージ類 ③自動車用部品 ④合成樹脂製品、電気機器類の販売及び輸出入事業。

AYCの設立披露式は翌年の2月、ニューヨークとシカゴの両都市で、現地得意先、進出日本企業、商社、銀行、官庁筋などを招待して挙行された。ニューヨークでは2月7日ホテル・アメリカーナで招待客約200名。シカゴでは同10日、エッジウォーター・ビーチ・ホテルで、招待客は約150名だった。

こうして華々しくスタートを切ったAYCだが、初めからGM、フォード、クライスラーのビッグスリーから仕事を受注できたわけではもちろんない。出向者3名、女性事務員を含めて総勢7名という小所帯だ。日本企業、とりわけ製造業のアメリカ進出がほとんどなかった時代。日本車などまだ1台も見かけず、トランジスタラジオとカメラがようやく売れ始めたころだった。

当時23歳で島田製作所から赴任した若手従業員の最大のミッションは、フォード社にタコメーターを売り込むための技術承認テストを受け、成功させることだった。しかしメイドインジャパンの評価が低かった時代、テストさえ受けさせてもらえない。2年かかってようやく合格し、創業社長の矢﨑貞美自ら受注交渉に当たったが、突然の仕様変更があったから今回はキャンセルだという。日本から飛んできた貞美は烈火の如く怒ったが、駐車場まで戻ると、悔し涙を流している従業員に言った。「泣くな。商売にはこういうこともある」。このときの悔しさと感激は生涯忘れないとその従業員は語る。

顧客と机を並べる日本流の勝利

AYCの設立から23年後の1989(平成元)年、米国デトロイトに開発設計の「矢崎EDSエンジニアリング・インク」が設立された。

先発隊として10名ほどの若手技術者たちを人選し、デトロイトに送り出した当時の責任者は、こう振り返る。

「日本ではカーメーカーのオフィスで矢崎のスタッフが机を並べ、システム全体を共同で開発していく。アメリカではW/Hの部分を抜き出してその開発だけを我々に要求していました。両者を比較したところ日本式の方がメリットが大きい、と彼らがジャッジしたのです」

ただし、送り出したものの心配は尽きない。勝手が違うアメリカで、カーメーカーの技術者と顔をつき合わせ、配線の対象になる機器側のスペックを聞き、意見を戦わせながら最も費用対効果の高い図面を作る。技術能力に不足はなくても、言葉や習慣の違う相手と互角にやり合えるだろうか。

「20代、30代の若さとチャレンジ精神に期待を込めて、短期間の英語研修の後にアメリカに送り出しました。言葉のハンディで悔しい思いをしたり、望郷の想いで夕暮れの空港の椅子に座って飛行機を見つめていたとか、最初のうちは誰もが、人にも語れないような苦労や挫折感を味わったようです。それでも2年後、私が責任者として赴任したときには、現地スタッフを指揮して顧客との連携作業を手際よく進め、厚い信頼を勝ち得ている自信に満ちた彼らがいました」

人は置かれた環境と与えられた責任次第で大きくなる。ハンディキャップが大きくても、とにかく現場で経験を積ませることが、矢崎の伝統として現在まで脈々と根付いている。