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タイ矢崎電線開所式(昭和37年)

EPISODE

グローバル展開エピソード

日本企業の海外進出がまだ珍しかった当時の、
グローバル展開にまつわるさまざまなエピソードをご紹介します。

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1995 VIETNAM

やって見せ、やらせてみせる
ベトナムに根づいた「矢崎流」

「矢崎EDSベトナム」誕生

1995(平成7)年3月14日、ベトナム戦争が終わって20年目という節目の年に、「矢崎EDSベトナム」が誕生した。前年の7月に新会社設立プロジェクトが発足した。当時のベトナムは、まるで20年前から時計の針が止まったままのようで、戦争で米軍が置き去りにした古い車を改造したタクシーが、真っ黒な煙を上げて町を走っていた。

会社設立のための投資ライセンス申請書類は、30年分の事業計画と親会社の決算報告書。それにカタログや当該事業の説明書を製本すると、厚さが2.5㎝の本になった。申請をしたのが12月末。思いのほか早く、3ヶ月後にはライセンスを取得し、晴れて「矢崎EDSベトナム」が誕生した。

当時は日本からはもちろん、外国からの企業進出は珍しく、現地従業員の募集には定員の10倍が応募してきた。面接で異口同音に「仕事は100%できる」と言うのには驚いたが、顔つきや身なり、話し方などで判断していった。このときに採用した大卒の最初の9人は日本の御殿場製作所で半年間研修を行い、徹底的に訓練した。その9人は今、各部署の責任者として活躍している。一般従業員については、真面目に働き、二交替制勤務に応じられるかを確認して採否を決めていった。

おばちゃん先生、ベトナムへ

こうして人も揃い、9月から本格操業に入った。最初は従業員の習熟度が低く、仕事が納期に間に合わない。指導のために日本から現場のベテランパートさんたちを派遣してもらったところ、言葉は通じなくても実際にやって見せ、やらせてみせるため、覚えが早い。3カ月間の指導が終わっておばちゃんたちが帰国するときには、みんな涙を流して別れを惜しんでいた。

機械研修のため20人ほどをタイの工場に3ヶ月間送ったところ、彼らはその間にタイ語をマスターして帰ってくるほどベトナム人は語学に強い。日本人がベトナム語を覚えるより、彼らに日本語を覚えてもらった方がはるかに早く仕事が進む。そう確信した当時の矢崎EDSベトナムの社長は日本語研修に力を注ぐことにした。

世界で実を結ぶ矢崎流「人の育て方」

しつけやマナーの悪さには手を焼いた。ゴミだらけでも誰も拾わない。これでは整理整頓などありえない。トップ自ら率先してゴミを拾った。毎朝、ロッカーの前で「おはよう」の声をかけ続けた。朝礼では会社側の考えを根気よく説明し、業績が良かったときには皆の頑張りを讃え、記念品を出したりすると、みんな喜んでくれた。小さなことの積み重ねにより、次第に彼らの方から挨拶をするようになった。

こうして3~4年経つうちに、徐々に人が育っていった。7年後、ベトナム北部のハイフォンに新会社・矢崎ハイフォンベトナム(YHV)を創るころには、矢崎EDSベトナムでは中間管理職も育ち、日本から来た図面を基に自分たちで生産計画を立てられるようなレベルにまで達していた。そして今、彼らは部課長に昇進し、会社を支える屋台骨へと成長した。

若い人材を採用し、人としてのマナーやしつけを一から教え、育てていく。地域との繋がりを大切にする。一見遠回りなようでも、矢崎流の「人の育て方」は、こうして世界中でしっかりと実を結んでいる。