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富士工場 銅連続鋳造圧延装置(平成26年)

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開発・事業展開エピソード

ワイヤーハーネスに始まり多くの主力製品を世に生み出してきた
先人たちの、製品開発にまつわるエピソードをご紹介します。

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メーター

労働争議の泥沼から生まれた
メーターという大輪の花

世界一の計器を作りたい

1949年。自動車用メーターをほぼ独占で製造していた名門の東洋時計がストライキで操業停止に陥っていた。必要な計器類が手に入らず、困り果てたカーメーカーが、主要なカーメーカーの協力会の会長を務めていた創業社長・矢﨑貞美に相談をもちかけた。組合側は虎の子の計器類を人質にして協議に応じようとしない。

貞美は一計を案じた。東洋時計の計器製造部門である上尾工場から、販売部門だけ分離独立し、資金は自動車会社5社が出す。この提案を組合内で協議した末、先の見えない状況ではこの際分離もやむなし、となった。

すると貞美は、上尾工場から技術者を連れてきて製造までやろう、と改めて言い出した。「話が違う」と息巻く強硬派。しかし長引く争議で給料もほとんどもらえず、大半はうんざりしている。本音はストライキより、ものを作りたいのが技術屋の本能だ。

1950年。折からの朝鮮特需に押されて、矢﨑貞美を社長とする日本自動車計器株式会社が8月に発足した。旋盤やプレスなど設備一式は東洋時計から買取り、トラックで芝浦の工場へ運び込んだ。腐ったトタン屋根、床には水溜まり、上は青天井。貞美が先頭に立って改修工事が始まった。理系スタッフたちも、ペンや計算尺を金づちや刷毛に持ち替えた。

「ここで世界一のメーターを作ろうぜ」。

みんな、ようやく本業に戻れる喜びで湧き立っていた。

独自メーター開発の苦闘

日本自動車計器設立から1ヶ月ほどで第1号のメーターが完成、カーメーカーに納入された。その後、1959年に日本自動車計器は出資金をすべて矢崎に集約し、矢崎計器に社名変更した。この間に自動車メーターの生産拡大を続ける一方、ドイツのキンツレー社と技術提携し、1958年にはわが国初のコイン式パーキングメーターを開発。正月早々で人通りもまばらな丸の内。アルミダイキャストのメーターを抱きかかえ、技術陣たち総出で取り付けを行い、東京都に納入している。

キンツレー社とは、タコグラフ(車両運行記録計)でも技術提携し、1960年に販売を開始している。パーキングメーターの時もそうだったが、社長のひらめきで契約してきたものの、設計図が大雑把でさっぱりわからない。上司に文句を言うと、「それなら直接見てこい!」の一声。ドイツに行ってみると、職人が一台一台ベテランの技で作り上げていた。これでは大量生産はできない。技術提携といってもすべてを教えられるわけでもなく、途方に暮れることもあったという。

タコハチの受難と栄冠

ようやく完成したタコグラフTCO-8型、通称タコハチだが、営業先では思うようにはいかなかった。神風タクシーや神風トラックの横行で、陸運局も運行管理の強化に乗り出し始めた時代。タコグラフの売り込みには絶好のタイミングのはずが、運転手や組合からは賛同を得られず拒絶された。「四六時中、社長に見張られてるようなもんだ」

安全性や経済性、過労運転の防止に繋がることなどを必死に説明しても、なかなか理解してもらえない。しかし運行管理を科学的に行うタコグラフは、先進的な運送業者には高く評価された。発売の翌年に大手運輸会社が車両121台に一括搭載。評判は一気に広がった。1962年10月、タコグラフは法制化され、貸切バスや路線バス・トラックなどに搭載が義務化されている。

その後、矢崎計器から日本初となる技術を搭載するメーター類が続々と誕生したのも、日本自動車計器の誕生があってこそである。