YAZAKI 過去がある。今がある。未来がある。 YAZAKI 過去がある。今がある。未来がある。

富士工場 銅連続鋳造圧延装置(平成26年)

EPISODE

開発・事業展開エピソード

ワイヤーハーネスに始まり多くの主力製品を世に生み出してきた
先人たちの、製品開発にまつわるエピソードをご紹介します。

HOME 開発・事業展開エピソード タマゴがニワトリを産んだ ワイヤーハーネス誕生秘話

ワイヤーハーネス

タマゴがニワトリを産んだ
ワイヤーハーネス誕生秘話

W/Hとの出会い

タマゴが先か、ニワトリが先か。といえば永遠に続く論争の種だが、それならこれはどちらだろう。

矢崎が先かワイヤーハーネス(自動車用組電線;以下W/H)が先か。W/Hを作ったのは矢崎なのだから、当然矢崎のほうが先だろう…

正解は、W/Hのほうが先。矢崎グループは1941(昭和16)年に矢崎電線工業株式会社として誕生したが、創業社長の矢﨑貞美はそれより12年も前の1929年(昭和4)、弱冠21歳の時から、個人経営でW/Hの販売を開始している。

矢﨑貞美が故郷の長野から青雲の志を抱いて上京したのは関東大震災の翌年、大正13年5月末。数えで16歳のときだった。家が貧しく、高等小学校より上の学校に進めなかった貞美は、日本橋横山町で衣料雑貨問屋を営むM商会に丁稚として働き始め、持ち前の明るい性格と頑張りですぐに頭角を現した。そんな折、M商会が新しく始めた電線販売の仕事に携わり、「銅を仕入れて業者に規格の寸法に粗引させ、ゴム引きと糸ブレードを施して製品化し、販売する」その面白味を知ることになる。

国内唯一のW/H専業メーカー

まだ誰も手をつけていない、電線の売り込み先はないものか。貞美が電線の新たな販路を探しながら町を歩いていたとき目に飛び込んできたのが、当時まだ珍しかった自動車だ。「まてよ、車の配線はどうなっているんだろう。」さっそく、日ごろ商品を納めている自動車修理工場に行って見せてもらった。もちろん、外車だ。それはふだん見慣れている電線よりひどく細く、何本かを寄り合わせ、ピンと張らずに弛ませて繋いである。「ははあ、組電線になっているのか」。その途端、天啓のようにある考えが閃いた。〈日本じゃ自動車なんてまだまだモノになっちゃいない。ましてや自動車用組電線の専門屋なんてどこにもいないだろう。よし、おれの仕事が見つかったぞ! 〉

その日から貞美は組電線の勉強を始めた。多忙な本業の合間に、取引先の自動車修理工場や電線工場を回り、知識を仕入れる。ワイヤーハーネスという用語も知った。そうこうするうち、勤めていたM商会を退社することになったため、独立してW/Hを専門に扱う商売を始めることにした。1929年、W/Hというタマゴが矢崎というニワトリを産んだ瞬間である。

国内自動車産業の勃興とともに

独立したとはいえ、当時の街を走っていたのは日本フォード、日本GMといったアメリカ勢ばかり。最初のうちは修理工場に持ち込まれるこれら外車用のW/Hが主だった。乏しい資金で銅を買い、電線屋で指定の太さの電線を引いてもらい、組電線の見本を作っては売り込む。まさに自動車ならぬ自転車操業だったが、モノ不足の時代に国産W/Hは歓迎され、商売は次第に軌道に乗っていく。1932(昭和7)年6月には石川島、東京瓦斯電工、ダットの三社共同で国産自動車会社が発足。その年の12月には軍需会社の満州自動車が設立されている。貞美は「国内唯一のワイヤーハーネス専業メーカー」を売り文句に、新興の自動車会社にもどんどん営業をかけていった。

1938年に「合資会社矢崎電線営業部」。1939年には東京都北区に尾久工場を設立し、一般電線とW/Hの製造を開始。1941年にいよいよ「矢崎電線工業株式会社」の設立を迎える。時あたかも日米開戦の年であった。