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富士工場 銅連続鋳造圧延装置(平成26年)

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開発・事業展開エピソード

ワイヤーハーネスに始まり多くの主力製品を世に生み出してきた
先人たちの、製品開発にまつわるエピソードをご紹介します。

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アロエース

創業社長のロマンを乗せて
苦難を乗り切ったアロエース

部品ではなく、完成品をつくりたい

1966(昭和41)年12月、矢崎総業は「アロライザー」の生産を開始した。プロパンガスは冬場にガス圧が低くなるため、どうしてもボンベの設置本数が増える。アロライザーはLPGベーパーライザー、つまりプロパンガスを強制気化させるための装置だ。創業社長・矢﨑貞美は、この製品に並々ならぬ期待を寄せていた。設立以来、ワイヤーハーネスやメーターなどの自動車部品と電線で急成長した矢崎だが、「部品だけでなく、完成品を出したい」というのが貞美の悲願だったからだ。アロライザー生産のために、浜名に3千坪の工場を新たに造った。営業にも販売強化の号令をかけた。しかしこれとて一般家庭向けに販売するという商品ではない。

「夏もガスを消費するような製品はないものか」。あるガス会社からこんな声が上がった。もともとガス業界は夏に弱い。「ガスによる吸収式冷温水機はどうだろう」。

調べてみるとアメリカにはあるらしいが、吸収式で小型のものは冷凍機の中でも最も生産が難しいとされていた。完成品をラインナップに加えるために、矢崎はあえて小型の吸収式冷温水機に挑戦することにした。

矢崎のエースがアロエース

吸収式冷温水機の仕組みを簡単に言えば、水は真空内ではわずか摂氏5度で蒸発する。このときの気化熱で冷水コイル内の水を冷して冷房する。蒸発した水蒸気は吸収性の高い濃い臭化リチウム溶液で吸収する。薄まった吸収液はバーナーなどの熱源で加熱して再び水と濃い吸収液に戻す。 熱交換は限りなく真空に近い環境が必要なため、真空容器製造には高度な溶接技術が要求された。

溶接はこの道20年のベテランが取り組み、試行錯誤の末、これまでの被覆溶接からアーク溶接のTIG・MIGという新溶接技術を採用する事で、1年ほどでやっとものにした。吸収液は臭化リチウムを使用するが、発生する水素ガスに悩み、米国アルクラ社の技術協力でその難関を乗り越えた。

こうして1970(昭和45)年秋、ようやく1号機が完成した。貞美は大いに喜んで言った。「これは矢崎のガス機器のエースだ。名称はアロエースだ」

翌年2月、いよいよ販売開始。「すぐに量産体制に入れ」という貞美の号令に応えるためには、月産能力1,500~2,000台という大工場が必要だ。1972(昭和47)年、10万坪の敷地に総投資額120億円の浜名製作所建設が始まった。

アロエースは再び表舞台へ

こうして創業社長の夢を乗せ、社運をかけた大規模投資で走り出したアロエースだったが、翌73(昭和48)年暮れの第一次オイルショックで、高額なセントラル冷暖房システムのアロエースは直撃を受けた。さらに政府の打ち出した超緊縮財政策で国内経済が一気に冷え込み、矢崎本体の経営も深刻な打撃を受けた。大型投資の負担がそれに拍車をかけた。そしてとどめを刺すかのように、1974(昭和49)年8月27日、創業社長・矢﨑貞美の急逝という悲運が矢崎を襲う。

この窮状を脱するため、矢﨑裕彦新社長(当時)のもと、経営陣は非常の手段に撃って出た。グループの本丸である東京田村町(現在の港区西新橋)の本社以下、保有する資産・総額200億円の売却である。その中には、アロエースの生産工場として完成したばかりの浜名製作所も含まれていた。

その後も苦戦が続いたアロエースだが、1980(昭和55)年、世界初の小型二重効用の「新アロエース」を発売したころから販売は上向きとなった。世界最小型の3RT(冷凍トン)から大型の200RTのものまで、豊富なバリエーションを備え、さらに、森林の間伐材などを熱源に活用できる「木質ペレット焚バイオアロエース」は、カーボンニュートラル(二酸化炭素の排出量をゼロにカウント)で、CO2を削減して地球温暖化防止に貢献する空調システムとして、先進的企業や自治体等から熱い注目を浴びている。