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浜松工場 アロエースの溶接風景(平成25年)

EPISODE

継承する矢崎人の想い

75年経った今でも語り継がれる、先人たちの変わらない
「想い=矢崎精神」を象徴するエピソードをご紹介します。

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二つの失敗

失敗か、男のロマンか
原材料への執念が貞美の原点

夢に魅せられた銅山開発

今日の矢崎グループの基礎を一代で築き、余人の及ばない先見の明と、猛烈な行動力、無類の押しの強さと、万人を惹き付けて止まない魅力的な人柄であった創業社長・矢﨑貞美。

しかし、そんな貞美にも失敗はあった。それも大のつく失敗がいくつもある。興味深いことに、その失敗例にはある共通点、それも貞美という稀代の実業家に生まれつき埋込まれている本能のような思考があった。

ひとつは1960(昭和35)年、伊豆で銅山開発を試みたことだ。伊豆の某という老人が貞美を訪ねてきて、伊豆に所有している先祖伝来の銅山を買わないかという。人品卑しからぬ老人の態度に好感を抱いた貞美は、下調べを命じた。権利関係に問題はないようだし、現地には確かに銅鉱石が露出している箇所もある。「よし、やろう」。貞美はすぐさま伊豆黄金崎の採掘権を買い、冶金の専門家を採用して銅鉱脈を探査した。しかしどうも鉱脈が薄い。露頭があっても、掘り進むとすぐに途切れてしまう。まるきり銅が出ないわけではないが、とても採算には合わないのだ。それでもここも掘れ、あっちも権利を買えと老人に引き回される。その揚げ句、半年ほど経ったころ老人はピタリと現場に顔を見せなくなった。そして2年が経過。これ以上続けても望みはないという結論に達し、ついに撤退を命じた。

ではなぜ、貞美はこんな話に乗ってしまったのか。矢崎ニュースの1971年5月号で貞美はこう語っている。

「何故銅山を欲したのか。それは君、電線という商売に首を突っ込んでみたまえ。誰だって銅が欲しくなるよ。世界的にはシンジケートがあって銅はどんなにじたばたしても思うようにならない。(略)銅相場は毎日のように変わる。電線の原材料である銅がこれではとても商売にならない。そこで私は一つ日本で銅を掘り出して世界中を『あっ!!』と言わせてやりたかった。しかしこれは駄目だとわかったとき、さっさと中止してしまった」

タイで綿花づくりに悪戦苦闘

もうひとつはタイでの綿花栽培である。1963(昭和38)年、矢崎はタイに初の海外進出(泰矢崎電線)を果たした。そのときのパートナーが経営していた紡績会社が、材料である輸入原綿のコスト高に悩まされていた。友情に篤い貞美は、それなら自分たちで綿花の栽培からやればいいと決断。農大出身の綿作の専門家を採用し、タイの東北部で綿花の自主栽培・生産に乗り出した。土地の改良から綿花づくりまで、現地の人々と生活を共にしながら熱心に指導。その甲斐あってようやく軌道に乗るかに見えたが、国民性の違いや収穫を横取りされる事件なども起こり、無念のうちに撤退した。

この二つの事業に責任者として深く関わった当時の専務は、貞美の胸の内をこう推察している。

「この二つの事例は、とても他の企業では手もつけないことへの挑戦でした。メーカーの常識を超えた原材料への思い、コストダウンへの執念、失敗の中から生まれてくる成功もたくさんありました。創業社長の限りない事業への挑戦に大きな『男のロマン』を感じてなりません」