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浜松工場 アロエースの溶接風景(平成25年)

EPISODE

継承する矢崎人の想い

75年経った今でも語り継がれる、先人たちの変わらない
「想い=矢崎精神」を象徴するエピソードをご紹介します。

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本社売却

本社ビル売却を決断
矢崎再建への覚悟と気概

第一次石油ショックと創業社長の死

1972(昭和47)年、矢崎グループは好況の絶頂にあった。グループ最大規模となる製造工場、浜名製作所が完成。その大きさから空母エンタープライズと呼ばれた工場の投資額は、120億円もの巨費に及んだ。同時に販売サービス体制確立のため全国各地に物流センター、支店が新設され、この営業体制整備投資も併せて、総投資額は実に230億円に達した。

ところが翌73(昭和48)年12月、第一次オイルショックが日本を襲う。政府はインフレ防止のため厳しい金融引締め策を断行し、日本の景気は急速に悪化した。矢崎は前年からの余勢で74(昭和49)年6月の決算こそ最高の数字を上げたものの、年初から売上・利益ともに急坂を転げ落ちるような状況に陥っていた。そして追い討ちをかけるように、決算から2ヶ月後の8月27日、創業社長・矢﨑貞美の急逝という悲運が矢崎を襲う。この未曾有の難局に当たって、なんとしてもこの逆境を耐え忍ぶという経営陣以下全従業員の気概、不屈の闘志が生まれた。

グループの本社ビルを売却

33歳で跡を継いだ矢﨑裕彦新社長(当時)のもと、経営陣は銀行団からの支援体制をバックに、思い切った改善策に乗り出した。

◯一千億円の売上で利益の出る体質にする

◯1万人の人員を8千名にする

◯遊休資産を処分する

実際、1975(昭和50)年から78(昭和53)年にわたって、矢崎は200億円に上る資産を処分。月額5億円の経費節約を敢行した。売却した主たる資産は、30年間にわたってグループの本丸であった東京田村町(現在の港区西新橋)の本社ビル、完成間もない浜名製作所を始め、36の支店などが含まれていた。

従業員たちも歯を食いしばって頑張った。組合はボーナスゼロを自ら申し出、昇給もストップという厳しい状態に置かれたが、その我慢が経営立ち直りの大きな助けになった。人員も新規採用の抑制と、定年者の勇退などで7,500名体制を実現。また、お得意先、銀行、仕入れ先、外注先各位からも絶大な支援が寄せられた。こうした社内外の関係者たちの死にものぐるいの努力のおかげで、矢崎は再建への歩みを確実に進めることができたのであった。