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浜松工場 アロエースの溶接風景(平成25年)

EPISODE

継承する矢崎人の想い

75年経った今でも語り継がれる、先人たちの変わらない
「想い=矢崎精神」を象徴するエピソードをご紹介します。

HOME 継承する矢崎人の想い 厳しさと温かさを併せ持った 創業社長・矢﨑貞美

創業社長

厳しさと温かさを併せ持った
創業社長・矢﨑貞美

仕事の鬼は人情家

矢崎グループの創業社長・矢﨑貞美は、猛烈な仕事人間の顔と感激屋で人情家の顔も併せ持っていた。

こんな話がある。鷲津工場の近くに産まれたT子は、幼いうちに両親と死別。中学校を卒業して、貞美の家に家事手伝いとして数年間奉公した。貞美夫妻はT子を可愛がり、実家の貧しい暮らしを何くれとなく援助したり、ときには養母を東京に招いて歓待したこともあったという。奉公を終え、二年ほど生家の畑を耕した後、T子は同じ町内の農家に嫁いだ。それを伝え聞いた貞美は、ある日自分で車を運転してT子の嫁ぎ先に現れた。夫や家人にも親しく挨拶して、その暮らし向きを尋ね、これからも幸せな家庭を営むよう、懇ろに励ましの言葉をかけて帰京した。身内でもなければ取引先でもない、会社で大きな功績を上げた従業員というわけでもない。奉公先を去って2年も経った元お手伝いにまで、これだけ徹底した愛情を注げる人だった。

下に篤く、上に厳しく

いっぽう、仕事における厳しさについては人後に落ちない貞美だったが、それはあくまで彼の一面に過ぎない。得意先に要請されて大赤字の会社を抱え込んだときでも、従業員の給料はきちんと出した。新たな土地に工場を建てるときも、役員住宅より社宅建設を優先した。幼稚園、グラウンド、プールなど、従業員のために福利厚生施設を整えては、それを地域の人たちにも開放している。

その反面、部品箱に足をかけたりしている工員をみつけると、真っ赤になって幹部連中を怒鳴りつけた。

「おい、部品をまたがせるな。品物を粗末にするような人間にはろくなものはできないぞ。しっかり教育しろ」

「机の上にものを置くな、置いていいのは電話機だけだ」

「営業は常に笑顔でお客様に接しろ。最初と最後の“おじぎ”はしっかりと」。

従業員には篤く、人としての心構えを諄々と諭し、部下の掌握もままならないような上級職の人間には容赦ないほど厳しかった。

今に続く思いやりの精神

1964年6月。出張中の仙台のホテルで貞美は強い地震の揺れを感じた。「新潟がひどいことになっているらしい」。そう聞くや、貞美はすぐに号令を発する。

「手に入る食べ物を何でもトラックに積んで、お得意先に届けろ。こういうときはまず食糧だ」

仙台を飛び出した貞美が向かったのは東北地方の小さな出張所。応対に出た所長の妻に「奥さん、いつもご苦労さま。若い連中に、温かいみそ汁、頼みますよ」。驚き恐縮する奥さんを後に残して、そのまま浜松の購買センターに飛んだ貞美は、地震の影響が仕入れに及んでいないかを確認。次には裾野の開発センターに姿を現した。

「どうだ、やってるか」

それ以上ムダな話はしない。センター長以下、この非常時のさなかに顔を見せた貞美の心遣いと、ここ一番の超人的な行動力に感激したという。

常に従業員やその家族を思いやり、感謝の気持ちを忘れない貞美の心情は、今も永年勤続者表彰をはじめとする各種福利厚生制度として結実し、今も矢崎のなかに脈々と息づいている。