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浜松工場 アロエースの溶接風景(平成25年)

EPISODE

継承する矢崎人の想い

75年経った今でも語り継がれる、先人たちの変わらない
「想い=矢崎精神」を象徴するエピソードをご紹介します。

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尾久工場の火事

どんな困難にも立ち向かう
矢崎伝統の不屈の闘志

矢崎の創業工場焼失

1955(昭和30)年2月26日夜。荒川区尾久の矢崎電線尾久工場から出火した。尾久工場は創業社長・矢﨑貞美が独立して初めて持った工場。主力の電線部門が沼津に丸ごと移転し、代わって立ち上げたばかりの日本自動車計器が芝浦から移転してきた、その翌年のことだった。

火の手は木造2階建ての上の階から上がっていた。土曜日の夜であったため人影もまばらで、守衛さんはじめ居合わせた数人がバケツリレーで水をかけたが文字通り焼け石に水。下の階から目についた道具箱などを運び出すのが精一杯だった。そのうちに炎は1階の天井までなめ始める。「危ない、もう入るな!」の声。間もなく消防車2台が到着して放水を始めたが、火災の勢いは止められず、隣りの棟への延焼を防ぐのがやっとだった。

火事の2日後には生産開始

なす術もなく炎を眺めていると、そこへ貞美が乗用車で駆けつけてきた。中庭の池の前に立ち、燃えあがる工場をじっと見つめている。濃紺の三つ揃いの背広に降り掛かる火の粉を払おうともせず、腕組みして仁王立ちのまま火勢を睨みつける様は、鬼神を思わせる凄みがあったという。

火勢が下火になった頃、計器工場の幹部たちも集まってきた。貞美は「明日荒川区の大工を全部集めろ」と号令を下し、他の幹部には「事務棟に組立用のコンベアーを造れ」など、矢継ぎ早に指示が飛んだ。

この日が土曜日で良かった、翌日が日曜で火事の後片付けができ、月曜日から通常の生産ができた、という人がいる。移転前の芝浦工場に修理用の設備一式が揃っていたのも幸いした、という。

しかし当時の矢崎を知る者はみな、異口同音にこう言うに違いない。どのような困難にも挫けない不屈の闘志。あの矢﨑貞美社長がいたからこそ、矢崎は幾多の危機を乗り越えられたのだと。