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浜松工場 アロエースの溶接風景(平成25年)

EPISODE

継承する矢崎人の想い

75年経った今でも語り継がれる、先人たちの変わらない
「想い=矢崎精神」を象徴するエピソードをご紹介します。

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伊勢湾台風

伊勢湾台風の復旧に貢献した
矢崎の救援隊

台風から3日で救援隊到着

1959(昭和34)年9月26日夕刻、紀伊半島潮岬に上陸した伊勢湾台風は、三重・愛知両県沿岸部を中心に甚大な被害をもたらした。

得意先の工場に矢崎からの救援隊が到着したのは、台風が駆け抜けた3日後だった。名古屋市港区にある同工場は1.5mも冠水し、大半の従業員は出社もおぼつかない。わずかに部課長クラスだけは出勤していたが、どこから手をつけたらいいか、手の施しようもない状態だったという。そこへただ1社、矢崎の救援隊20名が駆けつけた。混乱を極める道路状況をかいくぐり、5トントラック2台、ライトカー2台に手に入る限りの食糧や救援物資を満載してやってきた。この救援物資と現地に入った矢崎の救援隊員たちが泥水の中で歯を食いしばって働く姿に、各方面より高い評価と感謝の言葉をいただいた。

十日後の十万円より現在の握り飯

当時の名古屋支店長はこう語っている。

「『十日後の十万円より、現在の握り飯』。創業社長・矢﨑貞美はそう言ってハッパをかけました。一日も早く、誰よりも先に現地に駆けつける。貞美の先手主義が、真価を発揮しました。救援隊に参加した人も、特別に人選したり、競争意識から手を上げたわけでもない。日ごろからお世話になっている皆さんの窮状を救いたい。商売上のつき合いだけでなく、精神的な繋がりを大切にしたい、という矢崎の姿勢が、お得意様に理解していただけたのだと思います」

延べ人員338名、延べ車両台数54台のマンパワーをフルに生かし、お得意先の復旧作業に貢献したこの出来事は、半世紀を越えた今でも当時の矢崎従業員たちの脳裏に鮮やかに焼き付いているに違いない。

COLUMN

伊勢湾台風は、名前のとおり三重県から愛知県の伊勢湾沿岸一帯に、自然災害としては明治維新以降最大級の被害をもたらした。犠牲者5,098名、家屋の全壊36,135棟、半壊113,052棟、流失家屋4,703棟。被災者数は被害の集中した愛知・三重の両県民の2割に当たる約110万人に及んだ。とくにその被害を大きくしたのは、高潮の被害。低気圧による吸い上げ効果と、台風北上に伴う南寄りの猛烈な風による海水の吹き寄せ効果が相乗して、海水面が3.89mも上昇し、防潮堤を乗り越えた。名古屋市南区や港区には貯木場が連なり、直径1m、長さ10mの材木の大群が市南西部の工場地帯や住宅地を直撃した。南区ではおよそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によるものといわれている。